あこがれの人。あこがれの職業。あこがれの街。
前向きで、まぶしくて、少し甘い。そういう手触りの言葉だと思っていました。
古い形は「あくがる」。意味は、魂が体を離れてさまよい歩くことです。
「あく」+「離る」でできている
平安のころ、この語は「あくがる」という形で使われていました。
後半の「かる」は「離る」。離れる、という意味です。前半の「あく」は、場所に関わる語だろうと推測されていますが、はっきりした語源は分かっていません。辞書にも諸説ありと書かれています。
はっきりしているのは、二つを合わせた意味のほうです。
本来いるべき場所から離れる。
対象は場所だけではありません。国語辞典の語誌には、人の身や心、そして魂が、本来あるべき場所を離れてさまよい歩くことをいう、とあります。上代の文献には見当たらず、10世紀の半ばごろから広まった言葉だそうです。
源氏物語では、生霊のセリフに出てくる
この語がどう使われていたか。有名な例が『源氏物語』の「葵」の巻にあります。
葵の上が物の怪に苦しめられる場面です。そこへ現れた六条御息所の生霊が、こう口にします。
「もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」
思い悩む人の魂は、本当に体から抜け出してしまうものなのですね。そんな意味です。
自分の魂が抜け出していることを、生霊が自分で説明している。 なかなか背筋の寒い用例です。
いま私たちが「あこがれる」と言うとき、まさかその言葉が生霊の告白と地続きだとは思いません。
おまけ:意味が反転していった道すじ
では、どうやって明るい言葉になったのか。順番を並べるとこうです。
| 段階 | 意味 |
|---|---|
| 1 | いる場所を離れて、ふらふらさまよう |
| 2 | 心や魂が、体から離れる |
| 3 | 何かに心を奪われて、落ち着かなくなる |
| 4 | 思い焦がれる。あこがれる |
見ていくと、ずっと同じものが残っているのが分かります。
心がここにない状態です。
体はここにあるのに、意識だけがどこかへ行っている。魂が抜け出すのも、あの人のことで頭がいっぱいなのも、構造としては同じなんですね。
そう考えると、あこがれという言葉はいまも正確です。あこがれている人は、少しだけここにいない。
明日、こう話せる
誰かが「あこがれる」と口にしたときが狙い目です。
「あこがれって、もとは魂が体から抜け出すって意味だったの知ってる?」
たいてい「怖っ」と返ってきます。
「昔は『あくがる』って言って、本来いるべき場所から離れてさまようこと。源氏物語だと、生霊が『物思いする人の魂って本当に抜け出すものなのね』ってセリフで使ってる」
そして最後に、こう足します。
「でも意味は通ってるよね。あこがれてる人って、だいたい心ここにあらずだから」
言葉の由来としてはぞっとする話なのに、着地はきれいにまとまります。
