人間の鼻は、1兆種類の匂いを嗅ぎ分けられる。
どこかで見た覚えがありませんか。色は数百万色しか区別できないのに、鼻はけた違いだ、という文脈でよく紹介される数字です。
この1兆、翌年に名指しで否定されました。
そもそも、どうやって数えたのか
出どころは2014年、ロックフェラー大学の研究チームがサイエンス誌に発表した論文です。
やり方はこうでした。128種類の匂い分子を用意し、そこから10種、20種、30種を選んで混ぜる。できた混合物のペアを被験者に嗅がせ、違いが分かるかを調べます。
ここで問題になるのが、組み合わせの多さです。10種を選ぶだけでも200兆通り以上。全部を試すのは不可能ですよね。
そこで研究チームは、一部を実験で確かめ、そこから全体の数を数学的に見積もりました。こうして出てきたのが「1兆」という数字です。
色と比べられたのも、広まった理由でしょう。視覚は3つの軸で整理されていて仕組みがよく分かっている。それに比べて嗅覚はけた違いだ、という形で紹介されました。
3つしか答えられない微生物でも、1兆になる
翌2015年、カリフォルニア工科大学のマルクス・マイスターさんが反論を発表します。
要旨に書かれた一文が、なかなか強烈でした。この主張は間違っている。
問題は実験ではなく、少ない標本から全体を推定する数学の手法にある、という指摘です。
それを示すために持ち出されたのが、架空の微生物でした。
- 匂いは「好き(プラス1)」か「嫌い(マイナス1)」のどちらか
- この微生物は、混ざっている匂いの値を足し算するだけ
- 合計がマイナス2より下なら「うえっ」、プラス2より上なら「うまい」、間なら「どうでもいい」
答えが3種類しかありません。
ところが、この微生物に先ほどと同じ計算手順を当てはめると、やはり1兆に近い数が出てしまう。
3つしか区別できないはずの相手が、1兆種類を嗅ぎ分けていることになる。手法そのものが壊れている、というわけですね。
マイスターさんは、同じ計算を視覚に当てはめてもいます。すると人間は無限の色を見分けられる、という結論になってしまった。実際には数百万色とされているので、まるで合いません。
おまけ:その反論にも、反論がある
ここで終わらないのが面白いところです。
この論文を載せたeLifeという雑誌は、査読のやりとりを公開しています。読んでみると、3人の査読者の意見が割れていました。
2人はこの微生物の例を気に入っていました。ところが残る1人は、こう書いています。
この例はトリックに基づく、まやかしの構築物に見える。
区別できるものをすべて3つの区分に押し込んでしまうところが、巧妙すぎるという趣旨です。
意見が分かれたまま、論文は掲載されました。反論は成立しているが、たとえ話は強引かもしれない。そういう状態で世に出たわけですね。
では結局、人間は何種類の匂いを嗅ぎ分けられるのか。
まだ分かっていません。
明日、こう話せる
匂いの話題が出たときが出番です。
「人間の鼻って1兆種類嗅ぎ分けられる、って聞いたことない?」
たいてい「あるある」と返ってきます。有名な数字ですから。
「あれ、翌年の論文で『間違い』ってはっきり否定されてるんだよ。実験じゃなくて、数の見積もり方のほうがおかしいって」
そして最後にこれを足します。
「うまい、うえっ、どうでもいい。3つしか答えられない微生物でも、同じ計算だと1兆になっちゃうらしい」
有名な数字ほど、裏を取ると面白いものです。
